LOGIN百貨店の最上階にあるカフェーは落ち着いた雰囲気だった。蓄音機からピアノの曲が流れており、香ばしい豆の匂いと煙草の匂いが空気を満たしている。食器のぶつかる控えめな音と歓談の声がそこかしこから聞こえ、女学生の身で入るには少し勇気が必要だった。一人では尻込みしていたかもしれないと先生に言えば、先生はふっと目を細めた。
窓の外から街が見下ろせる席へ案内された私たちは、その眺めを存分に味わってから、食事を注文した。私が紅茶とシベリアで、先生は珈琲。
待っている間、話題を切り出したのは先生だった。
「美羽さんはいつまで僕を先生と呼ぶのです?」
「へ?」
想定外の質問に瞬きを繰り返すと、先生が喉をクツクツと鳴らすように笑う。私の知らない大人っぽい笑いかただった。
「対等な関係をお望みだったのでは?」
「あっ!」
私が「先生と生徒の立場は関係ない」と豪語したことを引き合いに出されたのだと気づくと、先生は賛同を求めるように片方だけ口端を持ち上げた。
「……で、でも、先生は先生だわ」
「では、僕もお嬢さまと?」
「それは……」
名前で呼ばれたほうが嬉しいに決まっている。だが、それを伝えるのは告白しているようなものだ。
私は恋熱に浮かされた頭をなんとか働かせ、「先生こそ」と矛先を変えた。
「先生こそ、対等に扱うと言っておきながら、まだ敬語だわ」
「僕は対等な相手にも敬語ですよ。そのほうが楽なんです」
「家族にも?」
「ええ。美羽さんも、ご両親には敬語でしょう?」
「それは……、そう、ね」
完全に丸め込まれ、それ以上の反撃はできない。
「……じゃあ、なんと呼べばいいの?」
「お好きに呼んでいただいてかまいませんよ。美羽さんの呼びやすいように」
「そんなことを言われても……。ねえ、なんて呼ばれることが多い? 学生の頃とか、あだ名の一つや二つあったでしょう?」
私が言えば、先生が「ありませんよ」とからかうような微笑を浮かべるので、名前で呼ぶ以外、逃げ場がなくなってしまう。
先生を名前で? 私が? 言い出したのは自分だが、まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。今日は先生のお話もたくさん聞けたし、良いことが重なりすぎているように思う。悪いことの前兆なんじゃないかしら。そう疑ってしまうほど。
現実逃避をしてみても、目の前の現実が変わるわけではない。先生が親戚の子供を相手するような、大人びた余裕のある態度で私を待っているのが癪に障る。
やっぱり、先生は私をお嬢さまだと思っている。
私は深呼吸して姿勢を正した。ただ、先生の名前を呼べばいいだけだ。わかっているのに、一気に距離が縮まったような感覚に頭が爆発してしまいそうなほど熱を帯びているのがわかる。
けれど、これは好機でもあった。逃してはいけない大切な、大切な一歩。
「そ、それじゃあ……」
こほんと咳払いして、私はこの世で最も尊いその名を口にする。
「司、さん」
木梨司。先生の名前。
木梨さんと呼んでも良かったが、あまりにも他人行儀な気がしてやめた。
果たして、私が勇気を出したのに、司さんからの反応はなかった。
やっぱり嫌だったのだろうか。顔に集まる熱を手元のお品書きで隠してチラと視線を投げると、司さんもまた、自分から言い出したことだというのに驚いたような、くすぐったいような、なんとも言えない珍妙な顔をしていた。ほんの少し、泣きそうな顔をしているようにも見える。
ちょうど女給が注文の品を運んできたことで、私たちの会話はそこで自然と途切れた。
梅雨時の湿った生暖かい空気の中、私と司さんはこの妙な雰囲気をごまかすようにカップに口をつける。淹れたてだろうか。熱い飲み物は無理に会話をせずに済んだ。
結局、その後は勉強のことを中心にいくつか言葉は交わしたが、名前を呼んだり、呼ばれたりするたびに意識してしまったせいで、いつもほどは盛り上がらなかった。聞きたいことは山ほどあったのに、ふわふわと浮足立つような感覚に気をとられていた。シベリアの味も、紅茶の味もほとんどわからなかった。
ボーン、ボーン、と店内に振り子時計の音が響く。見れば、十五時半を知らせる鐘だった。
「そろそろ、お迎えの時間ですね」
司さんが思い出したように、カップへ口を運び、最後の一口を飲み干した。
空になったカップを机に置いた彼は、そのままの流れで財布を出そうとする。私は慌ててそれを止めた。
「父からたくさん渡されたの。先生が出したなんて知ったら、私が怒られるわ」
「……今日は、先生ではありませんので」
「……っ! もう! 司さん! 私が悪かったわよ。とにかく、司さんは出しちゃダメ」
言葉遊びを楽しむように笑った司さんを置いて、私は先に席を立つ。伝票を持って足早に会計へ行き、支払いを済ませると、遅れてきた司さんが「ごちそうさまです」と私に頭を下げた。父の顔を立てるためか、財布はしまってくださったらしい。
少し早いが、待たせるよりはマシ。私は司さんとの別れを惜しみつつ、自動階段を下りる。これ以上を求めるのは贅沢だし、罰が当たりそうな気がして、楽しかった一日を振り返ることに専念した。
百貨店の一階で、司さんが「そうでした」と立ち止まる。
「美羽さんにこれを」
彼がそう言って差し出したのは、綺麗な紙製の栞だった。色鮮やかな花の印刷が施されている。
「これは?」
「本屋で見つけて、お渡ししようと思いまして。先ほどのお礼も兼ねて」
「そんな……、悪いわ」
「いつも勉強を頑張っていらっしゃるご褒美でもありますから、どうぞ受け取ってください」
司さんは念を押すように、私のほうへもう一度その栞を差し出した。
「……大切にするわ」
私は栞をできるかぎり丁寧に鞄へしまう。きっと、栞を見るたびに今日のことを思い出す。それが良いことか悪いことかはわからないけれど。美しい思い出に違いなかった。
「ありがとう」
「こちらこそ。今日一日、
司さんは柔らかな笑みを浮かべると、出口のほうを見て、
「ちょうど、お迎えも来られたようですし。こちらで失礼します」
と、帽子を胸元に当てて綺麗なお辞儀をした。
「それでは、また次回の授業で」
「ええ。お気をつけて」
帽子をかぶりなおした司さんは、颯爽と人ごみに消えてしまう。その影を追うよりも先に、「みぃ」と聞きなれた声に名前を呼ばれる。司さんに呼ばれるのとは違う胸の痛みが、私を現実に引き戻す。
「ちょうど良かったな。あれが噂の先生か。挨拶したかったんだけど、行ってしまわれたから」
「え、ええ。お迎え、ありがとうございます」
「気にしないで。さ、帰ろうか」
瑞希くんに連れられ、私は先生が消えていった方角と真逆に歩き出す。振り返ることはできなかった。
帰り道、車内で瑞希くんに辞書を見せ、カフェーに行ったことを話す。瑞希くんは楽しそうに話を聞いてくれて、今度は一緒に行こうと約束を取り付けてくれた。
鞄にしまった栞のことをなぜか言えないまま、私は瑞希くんの約束に頷いた。
昨日、先生との外出で熱に浮かされているような気分になっていたが、どうやら気のせいではなかったらしい。 小雨の降る朝、私は熱を出した。 心臓移植を受けてから十年。退院して五年。これでも元気になったほうだが、虚弱な体質は変わらない。 無茶をしたつもりはなかったが、慣れない人ごみに疲れたのかもしれない。「これじゃ、本も読めないわね」 喉が引きつって声が掠れた。寝台の脇に置かれた袖机へ手を伸ばす。水差しから水をグラスに注いで飲むと少しばかり気が晴れた。とはいえ、倦怠感のせいか体は重く、この程度の動作ですら胸が痛むほど鼓動を速める。 窓を叩く雨音を聞く以外にできることもなく、私は目を閉じる。昨夜はあまりうまく眠れなかった。発熱で体力も奪われているらしい。呼吸が落ち着くと、簡単に睡魔が襲ってくる。 ――私は、夢を見た。 私は古い家の縁側に青年と腰かけている。庭には満開の白い梔子。私たちは、それを眺めるのが好きだった。 風に吹かれてふわふわと揺れる花弁を見て、青年が笑った気配がする。「見て。雪みたいだよ」「雪?」「白くて、綺麗で、冷たい氷の雨なんだって。いつか一緒に見てみたいね」「うん!」 風が止むと私は花を愛でることに飽きて、お茶請けのあんこ玉を頬張った。 夢中になっていると、隣に座る少年が「僕のぶんも食べていいよ」と私にお菓子を差し出してくれる。 彼の顔は逆光のせいでよく見えない。が、私はその顔をよく知っていると思う。私の頭を撫でる優しい手つきも。 梔子の香りと
百貨店の最上階にあるカフェーは落ち着いた雰囲気だった。蓄音機からピアノの曲が流れており、香ばしい豆の匂いと煙草の匂いが空気を満たしている。食器のぶつかる控えめな音と歓談の声がそこかしこから聞こえ、女学生の身で入るには少し勇気が必要だった。一人では尻込みしていたかもしれないと先生に言えば、先生はふっと目を細めた。 窓の外から街が見下ろせる席へ案内された私たちは、その眺めを存分に味わってから、食事を注文した。私が紅茶とシベリアで、先生は珈琲。 待っている間、話題を切り出したのは先生だった。「美羽さんはいつまで僕を先生と呼ぶのです?」「へ?」 想定外の質問に瞬きを繰り返すと、先生が喉をクツクツと鳴らすように笑う。私の知らない大人っぽい笑いかただった。「対等な関係をお望みだったのでは?」「あっ!」 私が「先生と生徒の立場は関係ない」と豪語したことを引き合いに出されたのだと気づくと、先生は賛同を求めるように片方だけ口端を持ち上げた。「……で、でも、先生は先生だわ」「では、僕もお嬢さまと?」「それは……」 名前で呼ばれたほうが嬉しいに決まっている。だが、それを伝えるのは告白しているようなものだ。 私は恋熱に浮かされた頭をなんとか働かせ、「先生こそ」と矛先を変えた。「先生こそ、対等に扱うと言っておきながら、まだ敬語だわ」「僕は対等な相手にも敬語ですよ。そのほうが楽なんです」「家族にも?」「ええ。美羽さんも、ご両
本屋は多くの人で賑わっていた。ラジオやテレビといった娯楽も少しずつ普及してきたけれど、まだまだ本は主流だ。特に最近は洋書が手に入るようになり、一層賑わっているように思える。 普段は穏やかな先生も、本屋の大きな陳列棚を前に珍しく喜色を目に浮かべている。どこか落ち着かない様子で店内の地図を確認した先生が店の奥を指した。「辞書はあちらのようですね」 立ち読みする人でごった返す雑誌の列を抜けていく。私も物珍しさに時折足を止めながら、先生の後を追う。先生は決して私を置いていかないよう、時々後ろを振り返っては私の姿を確かめてくれた。私が先生を見失うはずなどないし、そもそも先生はよく目立つので必要などないのだが。少なくとも、女性たちがコソコソと噂話をしているほうを辿れば、必ず先生がいる。 先生はたしか、今年で三十五になると言っていた。私が十八になる年なので、十七も離れていると常々先生が口にするのは間違いではないのだが、どうも先生は世間一般に見ても三十五には見えない。線の細さと淡く消えそうな雰囲気が少年のように見せているのか、単に先生の美貌が若々しく見せるのかはわからないが。 ――私なんかより、よっぽど先生のほうが誰かにさらわれそうだわ。 辞書が並べられた一角で私を待つ先生の隣に立つと、先生は苦笑していた。「こんなにも人が多いとは思いませんでしたね」 すでに疲労の色が見える。人の多いところは得意ではないのかもしれない。あるいは、普段は天界のような場所で過ごしているか。少し浮世離れした雰囲気があるし、隠居しているようにも思えるから、あながち間違いでもないかもしれない。先生から聞く外の話は、いつだって、天気の話か季節の話、気温や植物や医学や小説に関することが多く、家族や知人のことは少ない。先日登場した洋書の蒐集に余念がない知人の話も初めて聞いたくらいだ。「先生は、あまり外へ出ないの?
週末はすぐに訪れた。 先生があらかじめ話をしておいてくださったらしく、両親からはすんなりと外出許可が出た。 意外だったのは瑞希くんだ。てっきり反対されるかと思っていたが、彼は理由を聞くと渋々ながらもその場で了承してくれた。 家庭教師が男性であることは瑞希くんも知っているし、なんなら瑞希くんは先生のことを良くは思っていない。私を看護婦にしたくない瑞希くんにとって、医学を教える先生の存在は決して有益ではないからだ。 けれど、瑞希くんは熟考したのち「みぃのためだもんな」と言い聞かせるように承諾した。条件付きで。 当日は瑞希くんに送り迎えをさせること。それも、暗くなる前には必ず迎えに来るという。さらには、買った辞書を見せること。その日あったことを教えて欲しいとも言った。 そんなわけで、私は今、瑞希くんの車で集合場所である百貨店へ向かっている。梅雨の時期には珍しい晴天が車の窓の向こうに広がっている。 今日、先生と買い物をする百貨店は、私の父が経営し、瑞希くんの会社が卸しをしている。中心地にある瀟洒な建物で、私も両親に連れられて何度か行ったことがある。もしかしたら、そうした場所を先生が指定したことも、両親や瑞希くんが私を送り出してくれた理由の一つかもしれない。先生のこうした気遣いに救われている。「俺の仕事がなければ、喜んで付き合ったのに」 瑞希くんは拗ねた口調でこぼした。 街に近づくにつれ、人の往来や車の数が増え、外は賑わいを見せている。 休日でも仕事に邁進している瑞希くんは恨めしそうに外を歩く人々を見つめていた。「ただでさえお忙しい瑞希くんに、そんなお手間は取らせられませんわ」「別に手間じゃない。みぃのためなら
それからの授業内容はあまり覚えていない。 先生に教わって数学と理科の問題を解いていたはずだが、私はただ言われるがままに手を動かしていたようなものだった。 先生も、そんな私の体たらくぶりに気づいたのだろう。「お嬢さま」 普段、私が問題を解いている最中に声をかけることなどしない先生が、いつもよりもはっきりとした声で私を呼んだ。 ぼんやりと問題集を見つめていた私は戸惑いながらも手を止める。 先生を困らせてしまったのではないか。先生を怒らせてしまったのではないか。がっかりさせてしまった? それとも……。 先生のこととなると、途端に悲観的になってしまうのは悪い癖だ。「お嬢さま、調子が優れないようでしたら今日は中止にしましょう」 私が俯いたままでいると、先生の声音はいつもの穏やかなものになる。「お嬢さまは普段からよく勉強なさっておられますし、多少休んでも問題はありませんよ」「……平気よ」「では、他に気がかりでも? たとえば、丸井さまのこととか」 思わず先生を見つめてしまった。そんな風に踏み込んだ質問をされると思っていなかったし、そう思われているとすら想像していなかったから。 ――違う。先生のことよ。 口から本音が飛び出しそうになって、奥歯を噛みしめる。 先生は私の反応を是ととったのか、なんとも複雑な面持ちで長椅子から立ち上がった。 私の文机の隣へ立ったかと思うと、先生の手が私の背後へ回った。
「おや、今日は洋服をお召しになられているのですね。珍しい」 部屋に入るなり、先生は私の格好に眦を下げた。瑞希くんなら必ず可愛いと褒めてくれるだろうが、先生は決してその言葉を口にはしない。微笑ましげな表情を見るに、悪いとは思っていないのだろうが、所詮、子供や妹に向けるような類のものだろう。 今日はいつもより早く帰宅できたからと気合を入れてお洒落をした私とは対照的に、三日ぶりの先生は、相変わらず灰色の着物に黒い羽織という飾り気のない出で立ちだった。家庭教師に来ているだけなのだから当たり前だし、先生はそれでも様になっているから文句などないけれど。もしも願いが叶うなら、先生の洋装も見てみたい。瑞希くんのような背広もきっと似合うだろう。 先生が羽織を脱ぐと、雨の香りに混ざってほんのりと梔子の香りがした。先生はいつも、どこまでも、普段通りだ。「今日も体調は良さそうですね」 先生は私の顔色を見るなり、私の洋服姿を見た時よりも美しく笑った。それだけで、せっかく着飾ったのにと燻っていた思いなど簡単に霧散してしまう。 先生は、私の見た目よりも心身の健康を喜んでくださる人なのだ。それはなにより誠実にも思える。瑞希くんとは違う、恋愛感情のない純真な誠実さ。 先生は長椅子に体を預けることなく、鞄からいくつかの本を取り出した。今日の教材だろうか。見たことのない分厚い本が一冊混ざっている。 先日、月に一度の特別な課題を終えたばかり。今日から一か月間はまた通常の授業に戻る。それでも、飽きがこないようにと工夫を凝らしてくださっている先生の課題を見る瞬間は、いつもほんの少しの優越感と喜びに満ちていて好きだった。「あっ!」 先生が私の机に重ねていった資料や課題の数々に私は思わず声を上げる。 表紙に美しい船の絵が描かれた本だ。







