Mag-log in百貨店の最上階にあるカフェーは落ち着いた雰囲気だった。蓄音機からピアノの曲が流れており、香ばしい豆の匂いと煙草の匂いが空気を満たしている。食器のぶつかる控えめな音と歓談の声がそこかしこから聞こえ、女学生の身で入るには少し勇気が必要だった。一人では尻込みしていたかもしれないと先生に言えば、先生はふっと目を細めた。
窓の外から街が見下ろせる席へ案内された私たちは、その眺めを存分に味わってから、食事を注文した。私が紅茶とシベリアで、先生は珈琲。
待っている間、話題を切り出したのは先生だった。
「美羽さんはいつまで僕を先生と呼ぶのです?」
「へ?」
想定外の質問に瞬きを繰り返すと、先生が喉をクツクツと鳴らすように笑う。私の知らない大人っぽい笑いかただった。
「対等な関係をお望みだったのでは?」
「
雪は次第に強くなった。客間から庭を覗くと、先生が下したばかりの雪がすでに生垣に積もっている。 あっという間に町はまた白く覆われてしまうのだろうと眺めていると、後ろから声がした。「今日は、ここにいてください」 顔を洗ってくるとお手洗いに立った先生が、いつの間にか戻って来ていたらしい。手には急須と新しい茶器が載ったお盆が握られている。私の茶碗が空になったことに気づいていたのだろう。泣いていたのに相変わらず敏い人だ。「良いの?」「ええ。宿まではそう遠くありませんが、この雪の中で帰るのは危険です。じきに、少しも前が見えなくなりますよ」 雪の多い街では良くあることなのだそうだ。先生はすっかり慣れた様子で、私の茶碗を新しいものに交換し、お茶を注いだ。 私としては、カフェーでお茶をすることでさえためらっていた先生が、こんな風に自然と家へ泊まっていくことを提案することに違和感を覚えた。「婚約者さまのことは聞かないの?」 違和感を口にすれば、先生がピクリと反応する。彼は急須を置いて、茶碗を私のほうへ寄せると、改まって私の前へ腰かけた。目元がまだ少し赤くて色っぽいなどと言えば、先生はどんな反応をするだろうか。私ももう子供ではない。先生は、それに気づいているだろうか。 先生はまた顔を隠そうとして、けれど、諦めたようにふっと口角を上げた。「もう、そういうのは辞めにしようかと」「え?」「……実は、僕にも、美羽さんに直接お伝えしたいことがあります」「先生が?」
雪の中、黒い羽織は良く映えた。「先生!」 彼は、庭の生垣に降り積もった雪を落としているところだった。先生はその手を止め、驚いたようにこちらを見つめている。視線は合っているはずなのに、先生はまるで夢幻でも見ているというようで、完全に硬直していた。 生垣からどさりと雪が落ちる。その音で、先生はようやく真正面から私を見つめ返した。「……お嬢さま、ですか?」「もう、お嬢さまじゃないわ」 私が言えば、先生はややあって、雪解けのように顔をほころばせる。あの頃のように少し困ったような、呆れたような、柔らかな笑みだ。「では、僕ももう先生ではありませんよ」「嘘。先生は先生よ。女将さんから聞いたもの。先生って呼ばれてるんでしょう?」「……ああ」 先生にはそれだけでピンと来たようで、宿のある方角を少し恨めしそうに見つめる。だが、やはりそれも少しすると苦笑に変わった。 先生の背格好も、姿も、最後に見たままだと思ったが、三年前に比べるとより穏やかな雰囲気を纏っているような気がする。この街の長閑さがそうさせるのか、あるいは、先生にもなにか変化があったのかもしれない。「立ち話もなんですから、どうぞ中へ」「雪かきは良いの?」「どうせまた降ってきますから。雪に強い品種ですし、多少は大丈夫でしょう」 先生は軽く生垣の上を払って、道具をしまうと玄関先へ回った。玄関から中庭が見え、私はその既視感に足を止める。 縁側と、その向かいにある生垣。砂利の敷かれた枯山水風の庭
汽車が目的地へ着く頃、外はすっかり暗くなっていた。 駅舎に下り立ち、私はその光景に目を見張る。「わぁ……」 一面の雪景色。駅舎についている明かりに照らされて地面はキラキラと白銀に輝いていた。 乗車中は、途中から窓帷を閉じてしまったから気づかなかった。 こんなことなら開けておけばよかったと思いながら、人生初めての雪に恐る恐る足を踏み入れる。サクリと氷が削れるような音がして、足元がじんと冷えていくのがわかった。もっとふわふわとしたものかと思っていたが、意外にも硬い。踏みしめるたびにギュムギュムと雪は沈んで固まり、うっすらと半透明になってまた凍る。「すごいわ、不思議なものね」 吐き出した息は白く、それすらも情緒を感じさせた。 数名の足跡が駅舎の出口に伸びている。雪原では足跡が残るのだということも今日初めて知った。 夜の帳が下りた人気のない駅舎に残る、微かな人の気配。凍てつくような寒さと、踏みしめるたびに響く雪の音。 幻想的な景色を噛みしめながら、私も駅舎の出口へと向かう。 出口に続く二重扉を開けると待合室になっていた。石炭ストーブが我が物顔で鎮座している。寒冷地では暖房機器が駅舎の中にまで普及しているのかと驚きながら、まだ燃えているそれに近づく。ほんのりと暖かな熱が伝わってきて、私は冷えた体を少しだけ暖めることにした。知らない土地で緊張していたのか、寒さのせいか、強張っていた体がほぐれていくのを感じる。 待合室の外へ目をやると、切符の回収箱が置かれているだけだった。すでに駅員の姿はなく、どうやらそこへ切符を入れておけば良いらしい。 朝早くに来なければ、帰りの切符は購入できないだろうと想像する。ま
看護婦養成所を卒業し、看護婦として病院勤めが始まって半年と少しが過ぎた。 養成所の二年はあっという間に過ぎ、病院での時間はもっと一瞬だった。命に関わる仕事ということもあって中々息をつく間もなく、この二年と半年で私はすっかり自立したと言える。 二十歳。私も正式に成人だ。相変わらず虚弱な体質は変わらないが、この体との付き合いかたもわかってきた。少なくとも、女学校時代に比べれば随分と良くなった。今では知恵熱を出しても一日眠れば大抵の場合は翌日回復している。看護婦としての知識も役に立っているのかもしれない。「だから、本当に平気なんですよ。あまりそう心配なさらないで」 私がお父さまにそう言い聞かせると、お父さまはようやく「わかった」と笑みを浮かべた。 今日は、久しぶりの実家帰省だ。心配性な両親が毎週のように「元気にしているか?」「顔を出せ」と手紙をよこすので、月に一度こうして実家へ顔を出すのが私の恒例行事となっている。毎回、病院での仕事や週末の過ごしかた、体調を報告するのがすっかり決まりとなってしまった。 とはいえ、今日の用事はそれだけではなかった。 両親との会話を終えた私は「忘れ物があって」と自室へ向かう。すでに娘は家を出たというのに、部屋をそのままにしてくれているのは両親なりの気遣いだろう。 私は学習机の引き出しを開けた。 そこには、三年前と変わらず一枚の切符が入っている。北の街へ行くための片道切符。「……先生」 本当は、もっと早くに会いに行きたかった。看護婦になったと伝えたかったし、高嶺美羽として、やはり先生が好きだともう一度伝えたかった。 だが、春は養成所の退寮と病院近くの家への引っ越しがあって休みなどなかったし、病院には夏休みもな
「それじゃあ、美羽は面接を受けられなかったってこと?」 私の話を聞いた菜々ちゃんが眉根を寄せる。 私が力なく頷くと、「馬鹿!」 菜々ちゃんの大きな声が私の耳を貫いた。鼓膜が破れてしまうんじゃないかと思うほど、キンと耳が痛む。 散々自分で自分を責めた後なのだから、もう勘弁してほしい。 私がうんざりと菜々ちゃんを見つめると、菜々ちゃんもまた我に返ったのか「ごめん」と謝罪を述べた。だが、その顔には不満がこれでもかと現れている。「先生に会うんじゃなかったの?」「でも……、どうしてもそのかたを放っておけなかったのよ」「立派な心がけよ。美羽のそういう優しさがあたしは好き。でも、今回ばかりは……」 菜々ちゃんは私以上に悔しそうに唇を歪める。「名前も知らないご令嬢でしょう? 美羽の夢はその程度だったの?」「……それは、そうだけど」 私が口をつぐむと、菜々ちゃんもまた口を閉ざした。 菜々ちゃんの気持ちはわかる。私だって、同じことを自分に何度言い聞かせたかわからない。 だが、今回ばかりは菜々ちゃんの言うことを素直に受け入れられなかった。 気持ちの問題だ。正解はない。強いて言えば、この問題について菜々ちゃんは部外者で、私を咎める権利もなければ、その立場にもないはずだということだった。けれど、菜々ちゃんにそれを突きつけるのは、親友を辞めようと言うようなものだ。彼女まで失いたくはない。 それでも互
先生が引っ越しをしたらしいと聞いたのは、夏も終わりを迎えようかという頃だった。 瑞希くんの手紙に書かれていた通りだ。 家庭教師を辞めた後、先生とは一切接点がなくなったと思っていたが、どうやらお父さまは連絡を取り合っていたらしい。私の後任の家庭教師が見つかったという知らせと共にその話を聞かされた。「本当に律儀な人だ。ご家庭の事情がなければ、美羽の卒業まで見てほしかったが」 お父さまは先生が私の心臓移植を手術したことも、私が先生を好いていることも知らない。先生の嘘を信じ、一人のほほんと口にした。「新しい家庭教師は、元々看護婦だったそうだ。もう良い年だからと病院を辞めたらしくてな。美羽にぴったりだと紹介してくれたんだよ。ご自身の引っ越しで忙しいだろうに、色々と根回ししてくださったらしい」「そうですか、ありがとうございます」 私が礼を述べると、お父さまは複雑な面持ちで息を吐いた。「それにしても、美羽が看護婦か……」 瑞希くん同様、お父さまもまた私の体調を心配しているようだったが、彼はそれ以上何も言わなかった。私が瑞希くんと婚約破棄をした要因の一つだとわかっていて、同じ轍を踏まないようにしているのだろう。 代わりに、「人生、なにがあるかわからないもんだな」とお父さまは会話を締めくくり、新聞を広げた。 私もまた自室に戻り、机の引き出しを開ける。 しまっていた切符を手に取り、私はしばらくそれを眺めた。「もう、行かれてしまったのね」 てっきり、一言くらいなにかあるのではないかと期待していた。瑞希くんからこの切符を手渡された時は、まだ引っ越していなかったはずだ。近々